こころの調律師、はらだなほこです。
ワタシは記念日が苦手です。
この日には〇〇するべき・・・・行動の押し付けが重たくて。
何処かの誰かが仕組んだ行事には、
ほとんど裏に別の目的があります。
大抵は、経済です。
その鋳型にまんまとはめられるのも、
お互いに結果を披露しあうのも、
誰かの思惑に乗せられて、皆で喜んで支配されているのが滑稽に感じて、
嫌なんです。
その一方で、
娘からメッセージがあると嬉しい自分も居たりするわけで。
矛盾です(苦笑)。
自分も母親にメッセージを送っているし。
完全に無視できない中途半端な自分が居ます。
ワタシ思うに、
娘が母親に感謝を伝えるのは記念日にする特別なことではなくて、
毎日、常に感謝して当たり前。
何故全員が一斉に同じ日に同じような行動をしなければならないのか?
それって奴隷みたいじゃないですか?!
「やらされている感」に居心地の悪さを感じるだけで、
母親に対する思いや行動を否定しているのではありません。
まだワタシが、中庸になりきれていないっていうことだと思います(;^ω^)
自分自身が人生がつまらなくて苦しかった頃、
こういう行事に誰よりもはまっているタイプでした。
誕生日、クリスマス、バレンタイン、母の日、父の日、、、、
プレゼント選びは当然楽しかったし、
自分がどういう扱いを受けるかにも敏感でした。
〇〇するべき。
〇〇してくれて当然!
記念日が裁判の残酷な判決のように感じたこともあったし、
ちょっとしたことに憤慨したり、不機嫌になっていました。
馬鹿らしいと思います、今となっては。
~しなければならない
have to
誰かと比較して、自分の方が幸せだとか、
相手を羨ましがったりしていたころは、
良いプレゼントを貰ってもどこか心に隙間風が吹いていました。
本当の満足ではないと、潜在意識は知っていたからだと思います。
真の愛や、真の感謝と、記念日合戦は何かが違う。。。
でもその何かを言葉にできない状態でした。
感情中心に生きていて、
その感情が何なのか?を捉える力が不足していたということです。
今、コロナという共通のネタを通して、
こうあるべき、
こうあらねばならない・・・というhave toが蔓延しています。
例えばマスクや様々な営業時間やスタイルの問題、、、
一般の方がお互いに監視し合う空気は、息苦しいなと思います。
その行動の真の目的は何か?
仕掛ける側には必ず意図が在ります。
「母の日」自体の意図は、経済の活性でしょう。
それを「愛」とか「感謝」とか「母性」といういかにもなオブラートに包んで、
なんだかよく見えなくしてしまう。
母親とは実にありがたい存在です。
ストレートに、ワタシ達の世話をしてくれたということもあります。
もう一つ。
壁として存在してくれているという、ありがたさです。
一度母親をじっくり見つめる必要が全ての娘達にはあります。
自分の母親の生き様を、事実として直視すること。
情けない部分、欠けている部分、不具合も全て一度、母という人間の棚卸をすること。
そのうえで、批判ではなく理解する。
理解して、感謝する。
この作業を終えずして、ただの仲良し母子関係に甘んじている方は、
カエルの子はカエルの一生で終わります。
その母親とそっくりの女・・・。
実は貴女は、母親より魂のレベルが少し高いことに気づくべきです。
宇宙は、器を最初に与えてくれています。
それを使いこなせるか、気づかず人生を終えてしまうか。
親から学んで、親を超えること。
小さな親の違和感の正当化を止めること。
感謝と、正当化は全く違います。
ここを不理解している「友達親子」は気色悪いと思います。
べたべたしあうくらいなら、いっそ喧嘩をしている人達の方が、
まだ将来性があると感じるワタシです。